徳川慶喜が大政奉還を布告し、坂本龍馬が暗殺された慶応三年。
世の中が騒然とするなか、窪川村仁井田(現四万十町)に嘉之助という子供が生まれた。
窪川村は県下の米所であったが、藩政時代は上納米として藩に納めていたため、庶民が米を食べることは少なかった。
嘉之助氏が成人する頃もまだ、米食をするのは一部の経済力がある層に限られた。
窪川村に限ったことではないが農家の田の畦には大豆が植えられ、ささやかながらも各家の食卓の足しにされた。
各村には一戸か二戸、畦の大豆を用いて豆腐をこしらえる家があったが、嘉之助氏の家も豆腐作りの技術を持っていた。

日清戦争、日露戦争の連勝に沸き立つ日本。戦争に勝ったからといって庶民の暮らしぶりは良くなるわけではなかったが、今後の日本に対する強い期待感が世に満ちていた。
嘉之助氏は着実に商いの基礎を固めていき、四十三歳のとき県都高知市に、米、酒、豆腐を販売する下田商店を開いた。

二代目軍吉氏は、父嘉之助氏が四十歳のときにできた子で、父や周囲に可愛がられて育った。
軍吉氏は明るい性格で、人を楽しませること、喜んでもらうことが大好きだった。
映画館の運営や、ショーの興業など、父の基盤を引き継ぎながら経営を多角化する一方で、ものづくりの精神を忘れることもなく「自分が食べる立場になって良いものを作れ、妥協はするな。」と従業員に口酸っぱく伝え続けた。

軍吉氏(左)と温氏(中央)

軍吉氏(左)と温氏(中央)

軍吉氏の商いは支持され商売は拡張の一途であったが、その盛運も第二次世界大戦の始まりとともに、かげりを見せた。
軍吉の妻子も戦火に呑まれ、店は焼け、その焼け跡を地震と津波が襲った。店と家族を失った軍吉氏は途方に暮れた。

その軍吉氏を支えたのが後妻の温(のどか)であった。
温が嫁いだ昭和二十一年、店のあった土地の周りは、空襲と水害で建物らしい建物がなく、人々は配給のキビやカボチャで細々と生活していた。
軍吉氏夫婦は「米や酒を売るのは周りに忍びない。庶民の生活に最も近い豆腐一本に絞って商いをやろう。」と決心し、南海化学の焼け跡から分けてもらったトタンで三畳の吹きさらしの小屋を作り、知人から二升の大豆を借りて豆腐作りを再開した。
商いの神は「人に役立ちたい」と、力を合わせて働く夫婦を見捨てることはなかった。焼け野原の豆腐は飛ぶように売れた。

現社長である起義(ゆきみち)氏が大学生のとき父である軍吉氏が倒れた。起義氏は就職先が決まっていたが、やむを得ず断って二十三歳にして事業を引き継ぎ、法人成りした。

社長になって数年の間、「採算を考えなければならない社長業は自分に合わない」と思いながら起義氏は過ごした。
一方で納品先である青物屋(食料品店)や、近所の人から豆腐の出来栄えについて褒められることが何より嬉しく、励みになった。

幼少の起義氏。自転車での配達が日課だった。

幼少の起義氏。自転車での配達が日課だった。

起義氏に転機が訪れたのは三十歳を目前に控えた折、九州での豆乳ブームに着目したことがきっかけだった。
高知での普及可能性を探るべく長崎県佐世保市にて製法を学び、その後、豆乳の青臭さ、飲みにくさを軽減しようと大豆の種類や、産地ごとの違いなどを栄養学の視点から学び直した。
このことによって「大豆は食材のなかでも理想的な栄養分を持つ食材であり、その栄養素を人間が余すところなく吸収できるのが豆腐である」ということを再認識することができた。
そして「豆腐という理想的な栄養食品に自分はいま携わっている。この幸せは商いの神の導きに違いない。」と考えを改めた。
父が倒れ、自分がこの会社を引き継いだのも天命だと受け入れられるようになった。

そして昭和五十年代、県内にスーパーなど量販店が増えた。
販路を拡げ、設備を拡張したものの、しばらくして起義氏は「良いものを安く」と謳う量販店の方針に違和感を覚えるようになった。
時代が平成になり、量販店にはさらに安価で長期保存が利く商品が並ぶようになるにつれ、起義氏はその違和感がさらに強くなった。
「価格を安くすれば、材料や工程のどこかを安く済まさなければならない。当社がお客様にお出ししたいのは、風味や舌触りの良さを感じられる豆腐や、味噌汁に入れてふわっと広がる油揚げであり、それは手作りで毎日、気候温度に合わせて丁寧に作るからできる。流通企画に乗せようとすれば、私の提供したい商品が出せない。」

そして、起義氏は「当社の考えに賛同いただける販路先や、お客様は必ずいる。」と、量販店との取引から手を引いて行った。
時を同じくして、起義氏の3人の子供が豆腐作りに引き寄せられるように会社を手伝い始めた。
現在は、親子と従業員で力を合わせながら豆腐の質を高めることに汗を流し、本物志向の飲食店や、小売店の開拓に力を注いでいる。

「良いものを作って、お客様に直接喜んでいただけることが、当社がずっとやってきた商いなんです。」そう語る起義氏の目に、世紀を超えた光が宿っていた。

〜高知商工会議所 会報 「業歴100年企業にまなぶ」より〜